みーちゃんの生い立ち

2006年12月 3日 (日)

みーちゃん,保育所に行く 2

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保育所に入って2年目の春,
また,みーちゃんは肺炎で入院してしまった。

体温とか室温には気を付けているのだが,
みーちゃんは,一旦風邪をひくと,こじらせて肺炎になってしまう。・・・と思っていたのだが,今回の入院では,新たな発見があった。

どうやら,みーちゃんは風邪をひいて肺炎になるわけではなく,誤飲によるものらしい。
それまで,ミルクを哺乳ビンで与え,離乳食を食べさせていたのだが,みーちゃんはうまく飲み込めず,誤って肺の方に入ってしまい,そこから肺炎になるようであった。

当時入院したときの担当医が提案してくれた解決策というと,鼻からチューブを入れ,胃まで到達させ,
水分,栄養補給は全てチューブを介してするというものであった。

お医者さんは,それを勧めるものの,僕たちには抵抗があった。見た目も重病に見えてしまうのもあるが,
みーちゃんは,食べることが好きなのだ。
好きな食べ物を口に入れると,
下手で,口からぼろぼろと食べ物とこぼしながらも,
みーちゃんは,一生懸命に食べる。
みーちゃんの数少ない楽しみだと思う。
それを奪うことはかわいそう。
チューブから食べ物入れても味はしないし,
それに,口を動かさないと,その機能が低下するのではないか?
それに伴う情緒的な発達にも影響するおそれがある。
お医者さんは,体の安全を第一に考えて言ってくれているのだろうが,これだけは,全て受入れるには抵抗があった。

妥協策を考え,ボバーズ記念病院で診てもらう。
食べ物が咽喉を通るところを撮影してもらい状況を確認したところ,
チューブなしでは,水は危険。
食べ物は,粒がなく粘りをつけたものなら,誤飲の可能性は少ないことが判った。
それで,水分はチューブから摂取し,食べ物は口から窃取することに決めた。

この判断は,ある意味,お医者さんの診断の一部に対して反抗してしまった訳であり,親のエゴで,みーちゃんを危険な目に合わす可能性がなかった訳ではない。
でも結果的には,この判断は正しかったと思うし,
また,みーちゃんもこの判断に応えてくれた。
振り返るとみーちゃんの生きることについての基本的な強さにいつも感心する。
そして,これからみーちゃんの快進撃が始まるのである。

みーちゃん,保育所に行く 1

3iolrc2a もう5年も前になるけど,みーちゃんは,1歳を過ぎた平成13年4月にめでたく保育所に入ることができた。

でも,実はその頃,パパはひどく疲れ始めていて,
入園式のときのことは,憶えていない。

その頃,みーちゃんの体調は,不安定で,すぐ熱を出し,肺炎になっていた。夜中に40度くらいの熱が出て,すぐに救急病院に駆け込み,そして入院するという生活をしていた。
2〜3ヶ月ごとに数週間入院していただろうか?確か1年で5回くらい入院していたように思う。市民病院の小児科病棟の「常連さん」になってしまい,すっかり看護士さんと顔馴染みになってしまいました。
「また,お世話になりま〜す」という具合に。
さながら「第二の我が家」,「別宅」というような状況だった。

それと並行して,当時,パパの仕事が忙しかった。
みーちゃんが生まれる前は,毎日残業していたし,休日も出勤することが多かった。
みーちゃんが入院を繰り返すようになり,パパとママが交代しながら,みーちゃんに付き添い,パパとママは何とか仕事をこなしていた。仕事をこなすためには,病院の中で書類を書いたり,寝る時間を割くしかなかった。

それでも,どうしても仕事をする時間が確保できず,また体調も維持できない状況に陥り,当時の上司に「与えられた仕事をこなすことができない」ことを相談した。
仕事上で「できない」と言ったのは,初めてのことだった。でも今は,何よりも優先しなければならないのはみーちゃんだった。

せっかく入れた保育所だけど,1年目は休むことが多かった。
パパもギリギリの線で通り抜けた1年だった。

2006年10月29日 (日)

みーちゃん0歳 7 さぁ どうしよう…

育児休業中、寝不足で朦朧としながら秋は深まる。
でも、ゆっくりしてはいられない。
いつまでもこうはしてられない。
来年度のことを考えないと。

みーちゃんを保育所に預かってもらわなければ。
・・・って言っても、みーちゃんみたいな障害児を預かってもらえるのだろうか????
でも、預かって貰わないと、パパとママは仕事できない。

えーっ!!仕事辞めないといけないの???
まだ、家買ったばかりでローンは始まったばかり。
それは困る・・・。
二人の収入をあてにして家を買ったのに。

もし仕事辞めるならパパかな???
収入あんまり変わらないし。
ママ家事できないし、体力ないし、車運転できないし、
パパが仕事を続けた場合、
昼は仕事、夜は家事、・・・しんどいぞ。
ママの方が若いから長く働けるな・・・、
などと考えていると精神的にまいってくる。

とにかく祈るような思いで、みーちゃんを連れて市役所に相談に行く。市役所の人も無理だとは言わないけれど・・・、身体検査を受けてくださいと言われた。

来年度公立保育所、入所希望者の身体検査だった。
うーん、うーん、みーちゃんの外見で判断されたら・・・

ところが、身体検査を受け、通知を待っていたら、
見事に希望場所の保育所で受け入れてくれることになった。
蛍池保育所というところだ。
後で、聞いた話ではあるが、
やっぱり受入れは難しい、反対だという声もあったようだけど、園長先生ががんばってくれらしい。

やったね。みーちゃん。
とりあえず行けるところまで行こう。
やっていけるところまでやろう。

育児休業は、2001年1月で終わり、
パパは職場復帰。
保育所入所まで3ヶ月あったけど、
その魔の時(詳細は割愛)を何とか抜け切った。

2006年10月25日 (水)

みーちゃん0歳 6

Gfeyzkqm 2000年の秋は,みーちゃんと日中を過ごす。
パパは育児休業中。
入院時よりマシとは言え,やはり、みーちゃんと二人きりで過ごすのはしんどい。
みーちゃんは,リハビリ入院のとき,初めて笑ってくれたが,それ以降笑ってくれない。
むっとしたまま,目を瞑りながら過ごすことが多かった。
そのむっとした状態も,だっこをしている状態でようやく維持。
布団に寝かせたら,10秒もたず,火が付いたように泣き出す。
トイレにも行かせてもらえず,仕方なくみーちゃんをだっこしたままトイレに行き,
だっこしたまま料理をしていた。
パパは常にみーちゃんをだっこしていた。
みーちゃんは女王様。
パパは奴隷。
みーちゃんはサディスト・・・。

(写真は、肥満児で、むっとしている頃のみーちゃん)

2006年10月24日 (火)

みーちゃん0歳 5

パパの育児休業は,病院から始まった。
ママは職場復帰。
みーちゃんはACTH治療のため入院生活。
パパは付添い入院。
聞いていたとおり,副作用でご機嫌はすこぶる悪い。
みーちゃんは,わぁわぁ泣く。
そしてミルクをどんどん飲む。
夜は短時間しか寝てくれないし,だっこしていないとすぐ泣くし,
パパは疲れてしまった。
夜明け前から,みーちゃんをだっこして,病棟の廊下を歩きながら,
担当の看護士さんが出勤してくるのを待った。
看護士さんが来てくれたら,少し間,みーちゃんを見てもらい,
僕は朝食を取り,一服できる。
睡眠がちゃんと取れないので,意識が朦朧としていた。

秋が深まるころ入院は終わった。
みーちゃんの点頭てんかんは,完全には収まらなかったが,
目に見えて発作が小さくなった。
これで良しとしなければ。
しかし,治療の副作用で食欲旺盛となったみーちゃんは,
入院前の体重から倍増。10kg近くになって,
未熟児からいきなり肥満児になってしまったのであった・・・

2006年10月23日 (月)

みーちゃん0歳。4 パパ育児休業取る。

みーちゃんが障害児だから・・・という訳ではなく,
もともと子供ができたら,僕は育児休業を取るつもりだった。
当時は,まだ育児休業は1年が上限であり,
ママは7ヶ月,僕は5ヶ月という計画で育児休業を取った。

僕はもとより,もっと女性が社会進出することに賛成しているし,
男性も女性も応分に家事から職業まで分担すべきたと思っている。
そしてママも,それなりに責任ある仕事をしているので尚更である。

しかし,男性が育児休業を取ることについて,
当時も今も浸透していない。
上司に育児休業を取ると宣言したところ,やはり怪訝な表情をされる。
権利である故,拒否されることはないが,
「何するんだ・・・???」という感じ。

もとより,男性が育児休業を取るという前提がないため,
仕事の体制もそういう考慮はない。
僕が抜けることにより大きな穴が開く訳だ。
ただでさえ,少ない人員で仕事を回している職場だけに,
周囲の人に迷惑を掛けるとは,重々承知の上で,休業を取った。
今後男性が育児休業を取り易くするためにも,
先頭をきるつもりだった。
・・・しかし僕以降,新たに育児休業を取った人は同じ職場ではいなかった(悲)。

もう一つ男性が育児休業を取らない理由は,
男性が休んでも「あまり役に立たない」という事実であろう。
あまり家事も子供の面倒も見ることができないパパが休んでも,
ママにとっては,日中面倒を見なければならない人間が一人増えるだけで,
それなら働いて,お金稼いできてよー,てな具合かもしれない。

ところが我が家は少々事情が違っている。
ママより僕の方が,家事能力が高いのだ。
家事について,ママが僕に勝るところがほとんどない。
誤解がないように言うと決して,ママが怠けているとかではない。
僕が異常に家事ができるためである。
多分,そこらの専業主婦では歯が立たないと思う。

僕の母は身体障害者であり,僕は幼いころ・・・物心ついたときから,包丁を握って自分,そして家族の食事を作っていた。洗濯,裁縫等,服に穴が開けば,自力で針と糸で繕っていたし,挙句の果ては刺繍までできるようになっていた。親は僕に何もすることはできなかった。やらなければならないことは,教えてもらうことを期待しないで,自分で考えてやってきた。そういう生活を30年以上やってきたパパと,何でもお母さんにやってきてもらったママとの差は歴然であり,ママが悪い訳ではない(因みにママは大学の「料理研究部」で副部長をしていたらしい・・・)。ママとパパが同じ料理を作っても多分ママはパパの倍以上の時間が掛かるだろう。パパは煮込み料理以外なら開始20〜30分で夕食ができてしまう。効率から言ってパパが料理を作る方が家族にとって時間的余裕が生まれるのと,数百メニューのレパートリーを持つパパがご飯を作った方が家族にとっても好ましいということで料理に関してはずっとパパが主として作っている。苦労する人はずっと苦労するという構図は少し悲しい。

ということでパパの育児休業が始まったのである。

2006年10月16日 (月)

みーちゃん0歳。その3

予想されていたこととは言え,
てんかんを起こして入院した。
平成12年8月のことだった。

てんかんの発作を抑えるのにどの薬が有用か,
入院して薬を変えながら試していった。
うーん,どれも今ひとつ・・・。
みーちゃんのてんかんも大きく危険なので,
とにかく抑えなければならないということで,
ACTHという注射をすることになった。
この薬はかなりの効果が期待されるとのこと。
だか,かなり副作用もあり,非常に機嫌が悪くなるということだった。
そして,食欲が旺盛になるという。
ACTH治療は平成12年9月から始まった。
そしてパパの育児休業も始まるのだった。

2006年10月15日 (日)

みーちゃん0歳。その2

みーちゃんが笑った!
リハビリ入院も残り僅かになったとき,
みーちゃんをだっこしていたら,
みーちゃんが,にたーっと笑った。
なんで笑ったのかよく解らないが,
とにかく確かに笑った。

パパは感動した。
みーちゃんは,目が見えない(というより見えても認識できないものと思われる)はずなのに,笑うことができるなんて。
赤ちゃんが笑顔になるのは,本能なんだ。
それまでは,ママやパパの笑っている顔を見て,赤ちゃんは笑顔を学習するものなんだと思っていたが,それは違っていた。発見だ。

みーちゃんが笑った。
パパの願い事の一つが叶った。

そして1ヶ月余り続いたリハビリ入院が終わり,
家路につく車の中で,みーちゃんはてんかん発作を起こした。
恐れていたことがやってきた・・・。
みーちゃんは,そのまま家には帰らず,
市民病院に入院することになりました。

みーちゃん0歳のころ

みーちゃんも,最初は普通の赤ちゃんと同じ。
だけど,そのうち障害の程度が判ってくる。
そして,てんかん発作が出てくるだろうとお医者さんは言っていた。

みーちゃんは,どうやら耳は聞えるようだ。
目が見えるのかどうかは解らない。
手足が不自由で,うまく動かせないようだ。

生後半年が経ち,お医者さんの紹介で,「ボバーズ記念病院」というところにリハビリのため入院した。ママと一緒に入院です。この病院は西日本各地からリハビリのために障害者の方たちが来院されているようです。パパは仕事が終わってから毎日顔を見に行きました。

生まれて半年経っても,みーちゃんは,何かに怯えているようで,体全体に力を入れて身構え,手はグーにしたままで強く握り締めていました。だっこされているときは,少し力を抜くことができましたが,普段はかなり緊張していたみたいです。リハビリをしてもなかなか難しい・・・。

そんなみーちゃんをだっこしていているとき,思った。
そういえば,みーちゃん,まだ笑っていない・・・。
みーちゃんの笑顔がみたいな。
多分,ママは大喜びするよ。
可能なら「ママ」と言って欲しいな。
「パパ」と言えなくてもいいから,
「ママ」と呼んであげて欲しい。

人目がないところで,みーちゃんをだっこしながら
「ママ」「ママ」と何度もみーちゃんに言い聞かせたが,
これだけは6年経っても無理だった・・・。

2006年10月 9日 (月)

みーちゃんが家にやってきた2

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みーちゃんが家にやってきた。
最初のうちは、普通の赤ちゃん。
ミルクを飲んで、寝て、泣いて・・・。

ママは、夜は疲れて寝ている。
と、いうことでパパは昼は仕事、夜はみーちゃんの世話。
仕方ない。
ママは寝不足だと、翌日、何もできなくなるから…(泣)。

それにしても、みーちゃんはよく泣きました。
外の世界に怯えているようで、
いつも身を堅くして、
だっこをしないとすぐに泣いてしまう。

仰向けにして、背中を着くことさえ許してくれなかった。
仰向けにして寝かせても10秒もたなく、叫ぶように泣く。
起きているときは、ずっとだっこ。
僕がトイレに行くときも、だっこしたまま。
仰向けにしても怒らなくなったのは、6年後だった。

みーちゃんが家にやってきた

Gkzciunj とにかく、みーちゃんはこの世に出てきた。
でも、1ヶ月ほど集中治療室に入ってた。
未熟児だったし・・・。

その間は、悩ましい日が続いていた。
医者さんから、みーちゃんは長く生きれないということや、
かなり重度の障害を背負うことにを聞かされていたからだ。

ドラマでは、よく聞く話だけれども、
まさか自分の子がそうなるとは。

僕は、基本的に目的や展望を持って、
それに向かって、今を、今日という日を生きていけるという人間だった。
僕の先には常に「こうしたい」「こうありたい」という目的があった。そのために、今が苦しくても何とかしのいできた。

僕は、みーちゃんと一緒に何を目指せばいいんだろう???
僕たちは何処に行けばいいのだろう。

努力さえすれば、
がんばりさえすれば、
何とかなる…
と思ってきたが、みーちゃんの体や命に関しては、
僕がいくら努力しても、どうしようもない。

何とも言えない状況で、
辿り着いた結論は、
「精一杯、みーちゃんを愛する」こと。
例え、みーちゃんの命が2、3年であろうが、
その短い間でも、普通の人が一生に得られる愛情を、
僕が注ごう…と思った。
一日でも手を抜かずにみーちゃんを大切にしよう…というのが僕の結論だった。

そして、みーちゃんが病院を退院して、我が家にやってきた。新しい生活が始まった。



2006年7月 1日 (土)

みーちゃんの出生の秘密。その4

朝になり、僕は、またお医者さんに呼ばれた。

「無呼吸時の状態もあるが、自力で呼吸ができているようすです。ミルクをあげます。」

亡くなると思っていた我が子が、生き延びた。

僕は喜んでいいのか、本当のところ解らなかった。
この子は、生き延びても、相当な障害を持つのだろう。
僕たちの未来を想像すると、明るい予感はしなかった。
今はそんなことは思わないけれど。

その後、ママはようやく我が子との対面を許された。
ママは素直に「かわいい」と喜んでいた。
その辺は、ママの良いところ。


双子であることが判らなかったこと。
そして一人の死産。
生き延びた子の障害。

これは医療過誤ではないのか?
その後、K産婦人科病院、大阪医師会、弁護士との話し合いが続いたが、あまりにも疲れたし、このことについて語ると膨大になってしまうので、ここでは割愛する。

とにかくみーちゃんは、この世に飛び出したのだ。

2006年6月24日 (土)

みーちゃんの出生の秘密。その3

昼からM市民病院に行った。

説明を受けながら処置を受ける。

夜も更けて、ママの陣痛も始まった。
ママは最初の出産で不安だっただろう。
「がんばって」としか言えなかった。
出産が間近に迫り、僕は退室。
廊下でその時をまった。
日付は変わり、午前2時ごろだった。
やけに静かな廊下で、これが終わったら元に戻るのか?
戻れるのか?
そんなことを考えると、
微かに赤ん坊の泣く声が聞こえた。

処置室に呼ばれ、思い切って入る。
赤ちゃんの姿はもうない。
ママは疲れた様子だったが、
「すぐに連れていかれたけど、赤ちゃんの泣き声を聞いたよ」と言った。
僕は、ママの手を握り、そして労うように笑顔で頷いた。

ママは一足早く、入院部屋へ帰った。
僕はお医者さんに呼ばれて処置室の奥の方に行った。

そこには、何かあった。
お医者さんが言う。
「胎盤ですよ。確認してください。」
お医者さんが、その胎盤をめくると中から
15cmくらいの小さな赤ちゃんがいた。

双子だったんだ。

その赤ちゃんは途中で亡くなり、
ママのお腹の中にもう一人が生まれるまでずっと一緒にいたんだ。

でも頭は混乱気味。
なぜ、今まで気付かなかったんだろう。

一旦ママのいる部屋に戻った。
ママと何か話したけど、うわの空だった。

また、お医者さんから僕だけ呼ばれた。
我が子との対面である。
「頭のない子」・・・一瞬その思いが過ぎる。
赤ちゃんは泣いていた・・・。
でもごめん。ちゃんと見ることができなかった。
本来ならば喜びの対面のはずなのに。

お医者さんが言う。
「無呼吸状態がありますが、延命措置は取りません。」
僕は、その言葉に頷いた。
最初からその予定だったのだから。

長い夜だった。朝がもう間近。
もう何も考えられないくらい混乱していたし、
疲れていた。ママのところに戻って少し休むことにした。



2006年6月17日 (土)

みーちゃん出生の秘密。その2

その正月のことはよく覚えていない。

2000年という新しい時代に入り、それなりに世間は賑やかだったような気がする。正月が明けて、ママと一緒にM市民病院に向かった。超音波で胎児の様子を見せられた。頭部が小さいという説明を受けるけど、何を言えばいいのか・・・。
更に、胎児のレントゲンを撮り、それを見せられた。妊婦にレントゲンと撮るというのは、それなりに漠然とは解るけど。そのレントゲンに映る子供の頭は、おでこの辺りから、平らに近い形をしていた。無慈悲な現実を見せられた。お医者さんが言う。「この子は、『無脳児』であると思います。字のごとく脳がありません。お母さんのお腹の中では生きていけますが、お腹の中から出ると呼吸もできないし、生きていけません。」と。もうこれ以上、胎児を大きくする必要もなく、母体の負担も少ないので、早く生んだ方が良いと勧められ、1週間後に入院し、人為的に出産をすることになった。病院の帰り、ママとパパは、言葉を交わすことも少なく、冬の道を帰った。

翌日、沈み込むママにどういう言葉を掛けようか考えていた。僕はパソコンである言葉を印字した。僕が考えていた子供の名前だ。一番最初に浮かんだ名前で、このほかにはないと思っていた。何故かほとんど女の子であると確信していた。一応男の子の名前も考えていたけど(笑)。何故か女の子であるとしか思えなかった。

「美理」(みさと)

それをママに見せた。「せっかく生まれてくる子供だから、ちゃんと産んであげようよ。そして名前を付けてあげよう。」とママに言った。

「いい名前ね」とママはようやく笑顔を見せてくれた。

入院の前日、ママの実家に僕は一人で出向いた。それまでママの両親には、このことを黙っていた。今、この時期に事を荒たげることをしたくなかったし、静かな気持で出産を迎えたかったからだ。二人だけにして欲しかった。だから、ママの両親に状況を説明し、出産にも立ち会わないで欲しいと頼んだ。ママの両親はあまりに突然のことで、状況を理解できなかったことだろう。とにかく今は何も言わないで欲しいと願った。

 僕の実家には電話で母に話した。僕の母は、物分りがいいというか、僕の性格を知っているというか、淡々と僕が話すことを聞いて、「大変だろうけど、気を落とさないように。」とだけ言った。母にもいろいろ言いたいことや訊きたいことはあっただろうけど、それ以上のことは言わなかった。それがありがたかった。

 そして入院の日を迎えた。

2006年6月14日 (水)

みーちゃんの出生の秘密。その1.

ママと結婚して3年目。共働き。マイホームを購入して、すぐママは妊娠した。何か順調に行ってるな〜なんて思っていました。
 ママのお腹は大きくなり、ママのお腹を蹴り上げる我が子の出産を楽しみにしていました。予定日は2月10日(だったと思う)。
 12月のある日、ママは産婦人科で定期健診を受けました。これまで「順調」と言われていたのに、その日お医者さんに「頭部が育っていない」と言われました。その病院は、毎回超音波撮影はしない方針で、その日は3回目の久しぶりの超音波での検査でした。1週間様子を見るので、また来るように言われました。ママはとても不安そうにしていました。パパも状況が解らず、何かの間違いで、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせました。

 そして1週間後、ママは病院に行きました。パパは、検査の結果を聞こうと家に電話しましたが(そのときは、携帯をまだ持っていなかった)、何度電話してもママは出てきません。もうとっくに診察は終わったはずなのに。不安がよぎり、病院に電話すると、ママはM市民病院に行っているとのこと。「どうしてですか?」と電話に出た人に訊くと、うちの病院では対応できないのでと言う。詳しいことはM市民病院で聞いてくださいという返事だった。なぜ、隣の市にあるM市民病院なの?と思い、もう仕事も手に付かず、途中で休みをもらって帰った。家に帰ると、ママも帰っていた。「胎児に異常がある」と言われ、ママは泣いていた。その日はクリスマス。ママの妹が男の子を先日出産し、お祝いムードだった。このことを言い出せず、ママとパパの両親にも話さないことにした。M市民病院から、ママは年が明けてからパパと一緒に来るように言われていた。どう表現したらいいかわからない不安の中で、パパとママは2000年の正月を迎えた。